1867年12月10日。
京都・近江屋。
幕末の英雄として知られる坂本龍馬が、何者かによって襲撃されました。
龍馬は頭部を斬られ、重傷を負います。
そして、その場にいた中岡慎太郎も重傷を負い、後に死亡しました。
龍馬はわずか31歳。
大政奉還によって、徳川幕府から朝廷へ政治の主導権を移すという歴史的転換が起きた直後のことでした。
まさに、
「これから新しい日本が始まる」
という時代に、龍馬は突然この世を去ったのです。
ところが――。
龍馬を殺した犯人については、現在でも完全には決着していません。
京都見廻組の犯行だったという説。
新選組が関与したという説。
薩摩藩や長州藩などの政治勢力が裏で動いたという説。
さらには、
「明治政府成立後に、真犯人が意図的に隠された」
という陰謀論まで存在します。
一体、坂本龍馬を殺したのは誰だったのでしょうか。
そして、その背後に「黒幕」は存在したのでしょうか。
■ 1867年12月10日、近江屋で何が起きたのか?
事件の舞台となったのは、京都河原町の近江屋。
当時の龍馬は、土佐藩を脱藩した政治活動家として、非常に大きな影響力を持つようになっていました。
薩摩藩。
長州藩。
土佐藩。
そして徳川幕府。
様々な勢力の間を動きながら、龍馬は新しい政治体制を構想していました。
その中心にあったのが、
「大政奉還」
です。
徳川慶喜が政権を朝廷へ返上することで、武力による全面的な倒幕を避けながら、新しい政治体制へ移行する。
龍馬は、こうした政治構想に深く関わっていたと考えられています。
しかし、幕府側から見れば龍馬は非常に危険な人物でした。
そして事件当夜。
何者かが近江屋を訪れます。
龍馬と中岡慎太郎が襲撃され、龍馬は致命傷を負いました。
■ 犯人は「十津川郷士」を名乗った?
事件直後の証言によれば、襲撃者たちは、
「十津川郷士」
を名乗ったとされています。
これによって、龍馬の側近は警戒を解いたとも考えられています。
しかし、実際には襲撃者は龍馬を殺害する目的で近江屋へ侵入しました。
そして刀による激しい斬撃が行われます。
龍馬は重傷を負い、
「慎太郎、俺は脳をやられた」
といった趣旨の言葉を発したとする証言も残っています。
この事件は後に、
「近江屋事件」
として知られるようになります。
■ 最有力説――京都見廻組
現在、最も有力とされているのが、
「京都見廻組犯行説」
です。
京都見廻組とは、幕府が京都の治安維持を目的として組織した武装集団です。
その中心人物の一人が、
佐々木只三郎
でした。
そして後に、元見廻組隊士の今井信郎が、
「坂本龍馬暗殺に関与した」
と証言しています。
今井の証言などから、
「龍馬暗殺は京都見廻組によるものだった」
という説が有力になりました。
幕府側の治安組織が、反幕府勢力と見なした龍馬を襲撃した。
そう考えると、事件の構図としても非常に分かりやすいのです。
■ 今井信郎の証言は決定的なのか?
では、
「今井信郎が認めたのだから、もう犯人は確定では?」
と思うかもしれません。
しかし、歴史研究では少し慎重に考える必要があります。
今井の証言は事件からかなり時間が経過した後のものです。
また、証言の細部には他の史料との食い違いもあります。
そのため、
「今井信郎の証言だけで事件のすべてが解決した」
とは言えません。
とはいえ、
京都見廻組の関係者による証言。
幕府側の事情。
事件当時の京都の治安状況。
その他の証言。
これらを総合すると、
「京都見廻組が実行犯だった」
という説は非常に有力です。
■ では、なぜ「新選組犯人説」が生まれたのか?
龍馬暗殺事件では、
「新選組が龍馬を殺した」
という説も非常に有名です。
当時、新選組は京都の治安維持を担っていました。
そして龍馬は幕府にとって危険な存在。
そのため、
「新選組が龍馬を暗殺したのでは?」
と考えられたのです。
特に、
「犯人が新選組の隊士だった」
という噂が事件直後から広まったことが、この説を強めました。
しかし、現在の史料研究では、
「新選組が龍馬暗殺を実行した」
ことを示す決定的な証拠はありません。
むしろ、京都見廻組説の方が有力と考えられています。
■ 「薩摩藩黒幕説」という恐ろしい説
ここから一気に陰謀論らしくなります。
それが、
「薩摩藩黒幕説」
です。
龍馬は薩長同盟の成立に大きな役割を果たした人物として知られています。
しかし、龍馬が考えていた政治構想は、単純な「倒幕」だけではありませんでした。
龍馬は大政奉還によって、
「徳川家も含めた新しい政治体制」
を構想していたと考えられています。
一方、薩摩藩の中には、
「徳川家を排除して新政府を作る」
という考えを持つ勢力が存在しました。
もし龍馬が、
「徳川家を含めた穏健な政治改革」
を進めようとしていたのなら、
「薩摩にとって龍馬が邪魔になったのでは?」
という疑問が生まれます。
そして、
「薩摩藩が京都見廻組を利用して龍馬を消した」
という説につながっていきます。
■ しかし「薩摩藩黒幕説」には大きな問題がある
薩摩藩が龍馬暗殺を命令したことを示す決定的な史料は確認されていません。
また、龍馬は薩摩藩と非常に深い関係を持っていました。
薩摩藩の西郷隆盛や小松帯刀らと交流し、薩長同盟の成立にも関わっています。
つまり、
「薩摩にとって龍馬は邪魔だった」
という一面だけを見て、
「だから薩摩が殺した」
と結論づけることはできません。
むしろ龍馬を利用し、協力関係を築くメリットも大きかったはずです。
■ 「土佐藩が龍馬を消した」という説
意外にも、
「土佐藩黒幕説」
も存在します。
龍馬は土佐藩を脱藩した人物です。
その後、幕末政治の表舞台で大きな影響力を持つようになりました。
しかし、土佐藩には、
「龍馬を政治的に利用したい」
と考える人物もいました。
そのため、
「龍馬があまりにも巨大な政治的存在になったため、土佐藩にとって危険になった」
という説が生まれます。
ただし、これも決定的な証拠はありません。
■ 「後藤象二郎が怪しい」という説
龍馬と深い関係を持っていた土佐藩士、
後藤象二郎
の名前が挙げられることもあります。
後藤は大政奉還を推進する上で重要な役割を果たしました。
そして龍馬が作った政治構想も、土佐藩を通じて中央政局へと伝わっていきます。
ところが龍馬が死んだ後、後藤は新政府の重要人物として出世していきます。
そこで、
「龍馬が邪魔だったのでは?」
という疑いが生まれました。
しかし、後藤が暗殺を指示したとする確実な証拠はありません。
「龍馬の死後に後藤が出世した」
という事実だけでは、暗殺の黒幕とは言えません。
■ 「岩倉具視が黒幕だった」という説
さらに、朝廷側の政治家まで疑われます。
その一人が、
岩倉具視
です。
岩倉は幕末から明治維新にかけて、非常に大きな政治的影響力を持った人物でした。
新政府の成立にも深く関わります。
そのため、
「龍馬のような独自の政治思想を持つ人物が邪魔だったのでは?」
という説が生まれます。
しかし、これも史料によって裏付けられたものではありません。
むしろ、本能寺の変と同じように、
「後に権力を握った人物」
が、
「事件の黒幕だったのではないか」
と疑われる構造があります。
■ なぜ龍馬は狙われたのか?
ここで重要なのは、
「誰が命令したのか」
だけではありません。
そもそも、
「なぜ龍馬が殺されるほど危険な存在だったのか?」
です。
龍馬は、単なる剣士ではありませんでした。
薩摩。
長州。
土佐。
幕府。
朝廷。
それぞれの勢力をつなぐ、
「政治的な仲介者」
として動いていました。
さらに、
「武力だけでなく、政治交渉によって日本を変える」
という発想を持っていました。
こうした存在は、旧体制から見れば非常に危険です。
■ 龍馬は本当に「大政奉還の立役者」だったのか?
ここにも歴史上の議論があります。
一般的には、
「坂本龍馬が大政奉還を実現させた」
というイメージがあります。
しかし、実際の大政奉還には、
土佐藩の後藤象二郎。
山内容堂。
徳川慶喜。
薩摩藩。
長州藩。
その他、多くの政治勢力が関わっています。
龍馬一人がすべてを動かしたわけではありません。
それでも龍馬が、
「大政奉還という政治構想を具体的な形で提示した」
ことには大きな意味があります。
だからこそ、
「龍馬が生きていれば、その後の日本政治は変わったのではないか」
という想像が生まれるのです。
■ 「龍馬は新政府の中心人物になる予定だった?」
これも有名な説です。
龍馬が暗殺されなければ、
「明治政府の重要人物になっていた」
という話があります。
しかし、これも確実ではありません。
龍馬は、
「政治家として政府に入りたい」
と考えていたのか。
それとも、
「政府の外から新しい日本を作りたい」
と考えていたのか。
様々な可能性があります。
龍馬自身の政治構想は、現在の政党政治とも少し違います。
そのため、
「生きていれば初代総理大臣になった」
といった説は、あくまで歴史上の「もし」の話です。
■ 暗殺犯はなぜ龍馬の居場所を知っていた?
ここは非常に重要なポイントです。
龍馬は、
「近江屋にいる」
ことを完全に秘密にしていたわけではありません。
しかし、襲撃者が正確に居場所を突き止めていることから、
「龍馬の動向を監視していた人物がいた」
可能性は考えられます。
実際、幕末の京都では各藩や治安組織が敵対勢力の動向を監視していました。
龍馬のような政治活動家が監視対象になるのは不自然ではありません。
つまり、
「暗殺者が龍馬の居場所を知っていた」
こと自体は、巨大な陰謀の証拠とは限りません。
■ 「暗殺現場に残された謎」
事件には、細かな謎も残っています。
犯人はどのように近江屋へ侵入したのか。
誰が龍馬の居場所を教えたのか。
なぜ警備が手薄だったのか。
なぜ龍馬は身を守れなかったのか。
そして、
「襲撃者は何人だったのか」
という点にも、証言の違いがあります。
こうした細部が完全には一致しないため、
「本当は別の暗殺者がいたのでは?」
という説が生まれました。
■ 「龍馬暗殺の真犯人は明治政府が隠した?」
さらに陰謀論では、
「明治政府成立後に、真犯人が意図的に隠された」
という説もあります。
もし新政府の有力者が事件に関係していたなら、
明治政府が成立した後に、その事実を公表するメリットはありません。
むしろ、
「幕府側の治安組織が龍馬を殺した」
という物語の方が、新政府にとって都合がよかった可能性もあります。
ただし、これも推測の域を出ません。
「隠された可能性がある」
ことと、
「実際に隠された」
ことは別問題です。
■ 京都見廻組説をもう一度考える
ここまで様々な黒幕説を見てきました。
では、最もシンプルな説明は何でしょうか。
それが、
「京都見廻組が、幕府にとって危険な坂本龍馬を排除した」
という説です。
幕末の京都は、非常に不安定でした。
暗殺。
襲撃。
情報戦。
諜報活動。
各勢力が激しく動いていました。
龍馬はその中心人物の一人。
幕府側から見れば、
「排除すべき人物」
と判断されても不思議ではありません。
そう考えると、事件は必ずしも巨大な陰謀を必要としません。
■ それでも「黒幕」が気になる理由
では、なぜ今でも、
「坂本龍馬暗殺の黒幕は誰だ?」
という話が続くのでしょうか。
理由は、
「龍馬があまりにも象徴的な人物だから」
です。
もし龍馬が単なる一人の武士だったなら、暗殺事件もここまで有名にはならなかったでしょう。
しかし龍馬は、
薩長同盟。
大政奉還。
新政府構想。
海援隊。
そして明治維新。
こうした歴史的出来事と強く結びついています。
そのため、
「龍馬を殺した人物=日本の歴史を変えた人物」
というイメージが生まれます。
■ もし龍馬が生きていたら?
ここからは歴史最大級の「もし」です。
もし龍馬が1867年12月10日に殺されなかったら。
明治維新後、
どのような政治家になっていたでしょうか。
政府に入ったのか。
海運業を続けたのか。
海外へ渡ったのか。
それとも、新しい政党を作ったのか。
分かりません。
しかし、龍馬が生きていれば、
「明治政府の政治構造そのものが変わっていた」
可能性はあります。
少なくとも、
日本の近代化をめぐる議論に、龍馬という非常に個性的な人物が加わっていたことは間違いありません。
■ 坂本龍馬暗殺の真相――黒幕は誰だったのか?
現在の史料から考えると、
「京都見廻組が実行犯だった」
という説が最も有力です。
一方で、
「誰が暗殺を命令したのか」
については、完全には解明されていません。
薩摩藩。
土佐藩。
新選組。
朝廷。
明治政府につながる政治勢力。
様々な名前が挙げられてきました。
しかし、決定的な証拠はありません。
したがって、
「黒幕は○○だった」
と断定するのは危険です。
■ 最後に残る、ひとつの問い
坂本龍馬が殺されたのは、
1867年。
明治維新のわずか数か月前でした。
そして龍馬の死から数年も経たないうちに、
日本は大きく変わっていきます。
幕府は消滅。
新政府が成立。
廃藩置県。
近代国家の建設。
日本は、それまでとは全く違う国へと変貌していきました。
もし龍馬が生きていたら。
この新しい日本に、どんな役割を果たしたのでしょうか。
そして――。
もし本当に龍馬暗殺の背後に、歴史に記録されていない「黒幕」が存在していたとしたら。
その人物は、
龍馬が生きていることで何を恐れていたのでしょうか。
龍馬が持っていた、
「薩摩と長州をつなぐ力」
「幕府と新政府をつなぐ政治構想」
「海外へ目を向ける視野」
そして、
「新しい日本を作ろうとする発想」。
それらを恐れた人物がいたとすれば、
龍馬の死は単なる一人の暗殺ではありません。
日本の歴史が大きく変わる直前に起きた、
「未来を奪った暗殺」
だった可能性があります。
しかし、現在確認できる史料から最も強く支持されるのは、
「京都見廻組が龍馬暗殺の実行犯だった」
という説です。
そして、最後まで残る謎は、
「では、その襲撃を誰が命じたのか?」
という問いです。
坂本龍馬が近江屋で命を落とした夜。
日本の歴史を変えた男の前に立っていた暗殺者たちは、
いったい誰の意思によって動いていたのでしょうか。
その答えは、今も完全には歴史の闇から姿を現していません。
坂本龍馬暗殺の黒幕
近江屋で龍馬を斬ったのは、いったい誰なのか?